当山の起源は貞和元年(1345)気賀の庄、石川氏が開基となり、楠正成公に仕えた後に仏門に入った龍氏(石峰和尚)が遠江国、入野村(現浜松市西区大平台付近)に東に佐鳴湖を望む地を見て、山号を東湖山、寺号を自分の姓一字を入れて龍谷寺としたことに始まる。
この地では3代で絶し、その後永正元年(1504)4月、雲谷和尚がこれを産海村(現浜松市西区雄踏宇布見)に移す。この地では6代で絶する。
寬文5年(1665)新居宿出身で山崎の安寧寺住職であった萬牛和尚は、大勢の檀信徒の山崎への往来の苦労を考え、東に湖を望む荒井の地(現新居高校東付近)へ嗣ぐの絶えている龍谷寺を再興して開山となった。
萬牛和尚は、さらに海を埋め立てて境内地を広げた。その辺りの土地は『龍谷寺堀』と言い、現在でも地名が残っている。
その後、寶永4年(1707)10月4日大地震来襲。三度の津波に見舞われ新居宿は全没する。
翌年、当山2世 江国和尚が現在の地に再興する。当山は現住職で15世。現在の堂宇は14世 玄雄和尚が再建した。